2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

歪形の家族性活(8)


《第1の手記》

 私の不幸の始まりは、夫である磯谷隆嗣の交通事故でした。
 運転中に意識障害で記憶がなくなり、停車中のトラックに追突してしまったのです。相手の方が無傷であったことがせめてもの救いでした。
 夫が突然意識障害にみまわれた原因は、今でもはっきりしません。もしかしたら、妙な薬を飲んでいたのかもしれません。

 幸い命はとりとめたものの、命の代償として生殖機能に障害が残ってしまいました。
 当時、夫は26歳、私は21歳。新婚で子供はおらず、妊娠もしていませんでした。
 夫婦で相談して人工授精を検討しましたが、K大学病院での精密検査の結果、精子を作り出す機能自体に問題があることがわかり、体内での受精は諦めざるを得ませんでした。
 それから、当時の最先端技術であった体外受精も検討しましたが、睾丸内に受精可能な精子が残っておらず、試験管ベイビーも断念するほかありませんでした。

 私は子供を産むことに関して、それほど強い執着はありませんでした。世の中には子供がいなくても幸せに暮らしている夫婦がたくさんいます。
 それどころか、不幸中の幸いだとさえ思いました。というのも、結婚直後から、夫の家庭内暴力に悩まされていたからです。
 優男で柔和な印象を与える夫からは想像しがたいことですが、これはまぎれもない事実です。
 夫の醸し出す優しげなオーラに惹かれて結婚したのですが、それは女をおびき寄せるためのフェロモンのようなものでしかなく、その本性はまさに野獣そのものでした。

 ですから、義父である磯谷作造から、異常な子作り、を提案されたときは、はっきりと断りました。
 子供ができないのなら養子をとればよいのです。血筋に拘るなら、弟の孝次か妹の桃代の息子を迎えればよいだけの話です。
 しかし、義父は、私が跡継ぎを産むことに拘りました。いま考えれば思い当たることがいろいろあるのですが、当時は義父の深謀遠慮にまったく気づきませんでした。

 義父の提案は、義弟である孝次と肌を合わせて子作りするという、身の毛もよだつような反道徳的なものでした。
 彼に言わせると、昔の田舎ではよくあったこと、らしいのですが、現代に暮らす私には到底理解できることではありませんでした。
 しかし、旧家の磯谷家では、家長である義父の命令は絶対的なものでした。逆らうことは許されません。

 私は離婚を考えました。当然です。義弟の子を産むなんて、想像すらできません。
 ひとりであれこれ悩み、無い頭で解決方法を考えましたが、妙案が浮かばなかったため、恥を忍んで幼馴染みでもある親友に相談しました。
 しかし、皮肉なことに、敬虔なカソリック教徒であることが、私の人生を狂わせました。親友は離婚しないことを条件にした解決策しか考えてくれなかったのです。
 いまは、脱会してでも離婚しておけばよかった、と後悔しています。あの頃の私は、若くて社会経験も皆無で、正常な判断ができませんでした。
 信仰以外にも離婚を妨げる問題がありました。実家が磯谷家から多額の支援を受けていたのです。ドラマによくある設定ですが、事実は事実なのでしかたありません。
 老舗料亭の次男坊だった父は、バブルの勢いに乗って都内に多くのレストランをオープンさせていましたが、開店資金の大部分が義父の資産から出ていたのです。

 最終的に、義父の提案(事実上の命令)を受け入れました。
 産まれてくる子供が自分の子であることは疑いようのない事実だし、戸籍上も夫の実子になる。そう、自分を納得させました。
 ただ、義弟と閨を共にすることなど考えられませんから、子供を産む条件として、人工授精で妊娠することをお願いしました。
 しかし、義父は頭を縦に振りませんでした。「障害のある子が産まれてきたらどうするんだ」の一点張りでした。
 子宮内で自然に受精するわけですから、科学的にあり得ないことなのですが、当時の認識はそんなものでした。

 結果的に、この妊娠が、私に更なる不幸を招くことになりました。
 私はつくづく運のない女です。


関連記事

テーマ : 18禁・官能小説
ジャンル : アダルト

コメントの投稿

非公開コメント

  PROFILE
豪円寺 琢磨
(Gouenji Takuma)

 サイトを移しました。
 移転先は下記のアドレスです。

 http://seiai.sakura.ne.jp/blog/

  CATEGORY
 PR