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歪形の家族性活(9)


 初めて義弟とベッドを共にしたのは、1984年4月3日、くしくも私の22歳の誕生日でした。
 たまたま誕生日に会うことになったと思っていたのですが、後に義弟が意図的にこの日を選んだことを知らされました。義弟は私のバースデーに童貞を卒業しようとしたのです。

 義弟との交合は1回では終わりませんでした。
 病院の検査で問題は出ませんでしたが、異状な性行為がホルモンバランスを崩したのか、なかなか懐妊しませんでした。
 妊娠しやすい時期に1回もしくは数回肌を合わせるだけだと思っていたのですが、義弟は私を都合のよい愛人のように扱い、好きなときに好きな場所へ呼び出して自由に弄びました。
 もちろん、私がすすんで体を差し出したわけではありません。義父と夫が義弟の提案に同意したため、そうせざるを得なかったのです。
 義父はともかく、夫が拒否しなかったことに、大変なショックを受けました。かろうじて繋がっていた心が、これを機に完全に離れました。夫の言葉が信じられなくなりました。

 義弟は私の体で研鑽を積んだ結果、私を性的に支配するようになりました。
 義弟に会うのは本心から嫌でした。必ず抱かれることになるからです。しかし、いったん会ってしまうと、もう性の奴隷でした。心が拒んでも、体が応じてしまうのです。
 恥を忍んで正直に告白します。
 私は義弟によって初めて女の喜びを知りました。性的な快感に目覚めました。
 といっても、義弟の性技がとくに優れていたわけではありません。彼の知識はすべて映像と伝聞によるもので、けっして女の本能をくすぐるものではありませんでした。
 しかし、義弟と体の関係ができるまで、私の経験は夫による一方的な生殖行為だけだったため、変態的ではあっても優しさのある義弟の対応はとても新鮮に感じられまし、安心感もありました。

 当時、二人の男性、つまり義弟と夫に、体を預けていました。
 不思議なことに、夫は精子を作り出すことができなくなっただけで、性行為はふつうにできました。アレもちゃんと大きくなりました。
 夫は、義弟との合瀬を激しくなじりながら、私を犯しました。
 夫婦間の行為で犯すという表現はおかしいように思われますが、確かに私は毎回、夫に強姦されていたのです。
 私は、あてつけるように、激しく達しました。義弟によって開発された体は、股間を刺激されるだけで気持ちよくなるようになっていました。
 夫にも義弟にも愛情など抱いていませんでしたが、夫の対応があまりに酷かったため、義弟には優しく素直に接し、無理難題もなるべく受け入れるようになっていました。
 愛情かどうかは別として、義弟が好意を抱いてくれているのは確かだし、産まれてくる子供の実父であることも間違いないわけですから、好感を持っている素振りくらいはしなければならないと思いました。

 数え切れないくらい抱かれた結果、1984年の夏、とうとう懐妊することに成功しました。逆算すると、磯谷本家での行為で孕んだことになります。
 これで義弟から解放される。そう思ってホッとしたことを覚えています。縛られていた鎖から解き放たれたような気分になりました。
 しかし、妊娠が判明してからも、義弟は執拗に誘ってきました。本番はしないから体だけでも触りたい、と切に訴えてきました。
 もちろん、私は拒否しました。当たり前です。体を開く理由がないのですから。夫からの性的要求も「お腹に子供がいるから」と言って拒みました。

 ところが、年が明けると、状況が一変しました。お腹の子が娘だとわかったのです。
 私は女性当主だって別にいいじゃないかと思いましたし、実際、家族にそう主張しましたが、残念なことに磯谷家でそのように考える人は一人もいませんでした。
 これを機に、また義弟から犯されるようになりました。義父に訴えましたが、無駄でした。
 私は見捨てられたのです。
 いま考えれば、拒絶することはじゅうぶん可能だったように思います。
 しかし、あの頃の私は、完全に自暴自棄になっていました。すべてのことがどうでもよく思え、自我をほとんどなくしていました。

 義弟は、お腹が膨らんでゆく私を、さまざまな方法で犯しました。
 妊婦が登場するビデオを見せられ、そのとおりにするよう強要されました。プレイ中に私を撮影し、私が主人公のおぞましいビデオを何本も作りました。
 マタニティードレス以外に、セーラー服や幼児服を着せられて、写真やビデオを撮られました。着衣のまま、たびたび襲われました。
 全裸のときは、思い出すだけでも恥ずかしくなるような変態的な体位で犯されました。股間のアップも撮られました。 
 臨月が近づくと、母乳を出すように言われました。絞らされもしました。義弟が口で吸うこともありました。

 義弟の行為は、出産してもやむことはありませんでした。
 出産直後は口での奉仕を強要され、1ヵ月たった頃からは、また股間を冒されました。
 乳児がいて思うように外出できないため、わが家が犯行現場になりました。愛娘がスヤスヤ眠る、その横で、私は変態的な行為を強いられました。
 義弟は夫が在宅中でも平気でやってきました。義弟が来訪すると、夫は謀ったかのように外出しました。
 懐妊して以来、夫との性行為はありませんでしたが、暴力はエスカレートしていました。
 私は、不幸な状況を忘れるため、自ら進んで義弟との行為に溺れました。犯されているときだけ、体が快感に包まれて、嫌なことを全て忘れることができました。

 このように、流されるまま自堕落な生活を送っていましたが、愛娘と出会い、彼女の笑顔を見るにつけ、我が子のために品行方正な生活をしなければならない、と強く願うようになりました。この状況から何とか抜け出さなければならない、と思いました。
 そして、その切なる私の願いは、思ってもいなかった意外なかたちで実現しました。
 しかし、新しくなった現実が、私を幸せに導くことはありませんでした。
 私は世の中を、そして神を恨みました。


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テーマ : 18禁・官能小説
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豪円寺 琢磨
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